Run in the Rain














    ザアアァァァァ―――――




    「ああっ、しまったわ。」


    ああ、本当についてないわ
    ちょっと寄り道のつもりでいたのに


    駅近くのデパートの入り口まで来て、は暗い空を見上げた
    …が見上げる空の色が暗いのは、もう夜の時分だからなのか、それとも降りしきる雨のせいなのかは定かではない


    …今朝観た天気予報通り、傘くらい持ってくれば良かった


    後悔先に立たず
    がそう思ったところで雨が止むはずもなく
    は閉店間近のデパートの入り口の軒下に一人取り残されていた

    目の前には地下鉄へと続く階段口があるが、その路線はの家の方向へ向かうものではない
    彼女の利用する地下鉄の駅は、ここから歩いてゆうに10分はかかる


    …ひょっとすると、もうちょっとしたら少しでも雨が弱くなるかも


    何の根拠も無く、はデパートの軒下でもう少し待ってみることにした





    5分、10分と時間が経過してゆく
    ぼんやりとしたの前を、多くの人間が横切る
    目の前の地下鉄の階段口に人がどんどん吸い込まれて行く
    その光景がまるで、側溝に集まる雨水のようだとは感じながら人々を見ていた

    しかし、人波同様、雨の勢いも一向に衰えることは無かった


    ヴ…ガガ…ガッ


    耳に届いた機械音に、は思わず上を見上げた
    閉店時間を何時の間にか過ぎたデパートのシャッターが降り始めている


    もう、此処にも長くは居られない
    駅まで走れば、5分くらいで着くはず…でも


    ずぶ濡れになりながら街中を駆ける自分の姿を想像して、はどうしようかとまだ決め兼ねていた
    が迷っている間にも、シャッターは彼女の頭上に少しづつ迫って来る


    「ええい、とりあえずもう少し待とう。」


    は、眼前の地下鉄の階段口へと小走りに移動した
    階段口の上には、覆う様に屋根が設置されているため、少々の時間なら人込みの端で雨宿りができそうだったからだ


    「ふう…、これでもうちょっとなら大丈夫ね。」


    独りごちながら、は鞄の中から小さなハンカチーフを取り出した
    半袖の服から剥き出しになった腕や、髪の毛を軽く拭う
    粗方の部分を拭き終えて、ハンカチーフを元の鞄の中に仕舞い掛けた時、の携帯がメールの着信を告げた
    慌ててが携帯を開くと、それは婚約中の恋人・レイジからのメッセージだった


    『今どこにいる?何してる?』


    味気も素っ気もない酷く即物的なメールとしか言い様が無いが、はくすり、と笑った
    おそらく突然雨が降ってきたので、自分の身を心配してくれているのだろう
    はそう解釈すると、雨に濡れた指先で返事を打った


    『今、駅のデパートの側で雨宿りしてるよ。早く止んでくれないかな?』


    送信ボタンを押して、は携帯を手に持ったまま立っていた

    …携帯を鞄に仕舞わなかったのは、恋人からの返事を待っていたからで
    その時間を楽しむのもまた良いものかも、と思った
    返事を待つ彼女のその表情はとても温かで、通りすがりの者からは幸せ以外の何物にも映らないだろう




    10分ほど経過しても、レイジからの返事は届かなかった

    きっと仕事が忙しいんだな、と思って、が少し残念そうに携帯を鞄に戻した時、彼女の立っている入り口の逆側の端に、
    一人の男が立っている事に気が付いた



    男はとても背が高く、ワイシャツにスーツのその姿はどこかの仕事帰りのサラリーマンそのものだった
    それ自体はにとって大して珍しいものでもなかったが、彼が明らかに日本人ではないことが一瞬の気を惹いた

    短く逆立った黄金の髪
    筋の通った、高い鼻梁
    スーツの上からでも判る、鍛え抜かれたがっしりとした身体
    そして…何処か遠い所を見詰める、強い眼差し

    『何処を見ているのだろう?』

    は、男のヘイゼルの瞳の先を追った

    男の視線の先には…街の暗い闇がただ広がっているだけだった
    少なくとも、にはそうとしか見て取れなかった
    だが、は気が付くと男のその視線の力強さそのものに引き寄せられそうになっていた

    何と、鋭く見据える瞳なのだろう
    きっと彼に真っ直ぐに見詰められたなら、私は射抜かれた様に動けなくなってしまうに違いない
    まるで目に見えない何かと闘い続けているような、激しい力を秘めた瞳


    は、時間も場所も忘れて暫し男の横顔を見詰め続けていた








    二人の間を、次々と人々が通り過ぎて行く
    殆どの者はそのまま階段を降りて行くだけだが、稀にの視線の先に訝しげに注意を向ける者もいた
    だが、はそれにさえも気付かず、唯ずっと男の横顔を見ていた



    二人の間の人波が途切れた一瞬、男がの方へと歩み寄って来た
    驚いたは、僅かに後じさる
    トン、とその背中に屋根を支える柱が当たった


    「……。」


    無言で、男はさしていた黒い傘をスッ、とに差し出した


    「…え……?」

    「使うが良い。」


    男の口から短く発された低い声が、の耳の奥に響いた
    視線同様、厳しさを秘めた声音
    …そして、驚くべきことに、彼の眼差しはそのまま真っ直ぐ先ほどの方向を見据えたままだった

    こちらを見ていないのに、どうして…?


    「あの…。」


    驚くべき事が多すぎて、すっかりたじろいだが咄嗟に声を出した





    「…いつまでも其処で雨が止むのを待つつもりか?」





    男は一言だけ返すと、そのままその視線の先へと歩き出した
    …眼差しだけでなく、歩き方まで恐ろしく真っ直ぐで
    は、また呆然とその後姿を見送り掛けていた


    「あ…ありがとう。」


    はっ、と我に帰ってが小さく叫んだその言葉は、男に届いていたのだろうか
    彼は振り返る事も無く、夜の闇の中に消えて行った


    …なんて不思議な人なのだろう


    は、男の消失点を見据えながら暫し黙って立っていた
    …その左手には、男の傘を握ったままで





    「ありがとう。」






    もう一度、今度は少し大きく呟いては歩き出した
    …自分の利用する駅に向かって



















    翌朝、外は昨日の雨がまるで嘘であったように綺麗に晴れ渡っていた
    部屋のカーテンの隙間から零れる陽の光を、はまだ眠い目を細めて一身に受け止めた
    久方ぶりの晴れ間に、思わずの口元からも笑みが零れる
    やはり、曇天や雨よりはすっきりと晴れている方が気分も明るくなる
    …だが、昨日の出来事まで嘘にはしたくなかった





    ザアァァァー



    ジャグから熱いシャワーがスコールのようにの身体を緩やかに打ちつける
    その音を耳にするうち、の脳裏には昨日の男のことが自然と思い浮かんでいた

    特に心に留め置くべき類の出来事でもないはず
    一夜明けて、すっかり忘れてしまっていたとしても何の不思議もない
    …しかし、男の輪郭が、低い声が、仕草の一つ一つがくっきりとの頭の中に刻み込まれ、繰り返し再生されていた
    時が経つごとに、その印象はますます強く、濃くなってゆく





    どうしてこんなに、あの男(ひと)のことが気に掛かるのだろう





    熱い湯を浴びることで徐々に覚醒の度合が高まる脳細胞の全てで、はそのことを考えていた
    …ほんの刹那の事、おそらく理由も答えも見出すことは不可能なのかもしれない

    コックを閉じ、目の前の鏡の曇りをは掌で拭った
    鏡の中には、自分の顔が映っている
    自分の瞳を見詰めていても、その中に男のあの強い瞳を見出していた
    の記憶の中で、男が微かに笑いを湛えた瞬間、は一人で赤面していた





    …そんなこと、ある筈もないのに





    濡れた髪ごと、は頭(かぶり)を大きく振った






















    「ふ――ん、そんなことがあったんだ、。」

    昼食時の社員食堂で、と友人のは食後の一時をおしゃべりに費やしていた
    がこの会社に入社した時からの付き合いで、所謂同期というものに当たる


    は大学卒業後、大手の文房具メーカーで事務の仕事をしている
    3年目に突入し、仕事も板に付いてきて一番楽しい時期だ
    しかも、一年前にコンパで知り合った証券会社勤務の男性・レイジと婚約中で、来年には挙式予定という状況である
    何もかもが幸せ一杯の順風満帆な人生を送っているという実感が本人にも確かにあった




    「いいのかな――、それって浮気じゃないのぉ?」


    意地悪な表情でに嘯く
    思い出してちょっと顔を赤くしながらも、は首を傾げてに反論した


    「…そんな事無いよ。大体、私はその人のこと、不思議な人だなって思っただけなんだし。」
    「でもさ、それだけアンタにインパクトを与えられるってことは、よっぽど気になってるんじゃないの、その人のこと。」


    は、食堂に備え付けの湯飲みで熱いお茶を啜った




    …は、あまりおおっぴらにこの手の話を他人にする事は無い
    それは、この手の恋愛話は尾鰭背鰭がついて勝手に広がって行く事が実に多く、
    それによって最終的に被害を被るのは自分だということを重々承知しているからである
    唯、昨日の事だけはどうしても忘れられず、にだけは聞いて欲しくなったのもまた事実
    にしては珍しい男関係の話に、最初はおや、と思いはしたものの、別段訝しく思うわけでもなく彼女の身に起こった些細な出来事の顛末を聞いていた


    「成る程ね。…う―ん、穿って考えてみると、それは所謂『マリッジブルー』なんじゃないの?潜在的な。」
    「それは違うよ、多分。だって私、今の生活やこれからの人生に不満は何一つ無いし。」


    きっぱりと言い切って、もお茶を口に含んだ
    胃の中を、熱い液体が降りて行く
    ぽうっと、体中が熱くなってゆくのは、今飲んだお茶のせいであるのか、それとも…


    「でも、その人、ホントに変な人だね。外人さんなんだよね?」

    「う、うん。日本語があまりにも上手だったというか違和感がなかったんだけど、見た目からすると確実に。」


    またしても再生を始めた自らの記憶に、は戸惑いに似た不思議な感覚を覚えていた
    歳の割には頑なに生きてきた自分としては、それが非常に珍しい心境であったからだが




    「また、会えるといいね、。」




    の一言に、は自分の心の中を覗かれたような驚きを感じた


    …もう一度、会ってみたい
    理由なんかどうでも良くて…心底、そう思う


    「さて、お昼休みも終わりですよ―。仕事仕事。」


    の言葉で、は再び現実の世界に引き戻された
















    それから更に一週間が過ぎ、の住む街は再び止む気配の無い雨模様に見舞われていた
    聞くところによると、気象庁は梅雨明け宣言を撤回する方針まで打ち出しているとか
    は、再び仕事帰りにあのデパートで買い物を終えた処だった


    「う――。また雨ね。…一体、何時になったらスカっと晴れるのかしら。荷物が濡れなければいいんだけど…。」


    は、右手に持った紙袋を僅かに上に持上げた
    その中には、来月、婚約者・レイジの実家を訪問する時に身に付けようと思っているスーツが入っている
    普段、慎ましく暮らしているに取って、それは久々に大きな買い物であった


    「おおっと、早く帰らないとまた締め出しを食らっちゃうわ。」


    閉店の放送の流れ始めた店内から、は若干急ぎ足に外に出た




    ザアアアァァァ――――



    相変らず雨は降り注ぎ続けている
    手にした水色の傘を開いて、は夜の雑踏の中へと歩き出した


    「ふふ、今日こそは傘を持ってきてるから、この間のようにはいかないわよ。」


    少々得意げに、は傘をくるくると回して見せた




    「今日は傘を持ってきているから…あの人には会えないわね、多分。」




    回された傘の先から、水滴が周囲にはね、アスファルトへと落ちて行く
    その様を目にして、流石に子供っぽかったかな、とは内心笑ってしまった


    「さて、と。スーツも買ったし、じゃあ元気に帰りますか。」



    デパートから10分間ほどのまるで散歩のような道程を、は意気揚揚と歩き出した
    スキップでも踏み出しかねない勢いのだったが、後ろから彼女をそっと追いかける黒い影には気が付かなかった







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